私達は、お寺や神社に行ったり、お墓参り、食事の前に手を合わせます。
今、目の前にある食べものや器は、この世の成り立ちによって、そこにあるものですし、
誰かの手によって材料が集められて、運ばれて、調理されることで、
今、わたしたちの目の前にあります。
たとえ自分で料理をしていたとしても、
最終段階のアッセンブルを行っているだけなんだな・・・と、ふとした時に感じらされます。
近年始めて、良かったなと思える習慣
いただきます!
少し前まで、人と行くときはやることがあっても、一人の食事で
やることがなかったこと。 ただのかっこつけですよね。
食や生活の話題を中心にした EAST WING を書き始めた頃から始めたのですが、
食堂でやるのは気恥ずかしく思えて仕方ありませんでしたし、一人の食事の時でさえ
なんか恥ずかしく思えていました。
最近は、というと忘れることもあります。
しかし手を合わせることが恥ずかしいとは思わなくなりました。
一人の時は声を出さず手を合わせています。目の前にある食事に感謝する時間も生まれます。
何のためにやっているか!?といえば、自分のためなんですね。
今、自分がありつこうとしている食事には、目の前に横たわる魚。
産地から運んでくれる運転手。良いものを届けようとお店に立つ人。 レジを打つ人。
漁や収穫の日の目安となる天気を予測する人々・・・・・
この、どれかひとつ欠けても、私の前に届くことはなかったものたちです。
最近、かっこいい大人とはどういう人だろう!?と考えることが多い。
この歳から、さらに先を生きる糧のようなものを探しているというのでしょうか。
その答えのひとつとなりそうなのが 「見えないものに対して敬う心」
まだ自分のものにはできていませんし、
話していて歯にものが挟まっている感もなくはありませんが
これこそ、本当の意味での格好良さといえるものなのかな!?と。
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